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マイケル・ムアコック インタビュー
「エッジの効いた文化が、私や私の友人、同世代の多くの人々を作り上げ、そして私たちが作り上げたものなのです。私はあの時代の精神の一部だったのです」

SF、ファンタジー作家として著名なマイケル・ムアコック、若い頃から編集、執筆活動の傍ら、自ら作曲演奏するミュージシャンでもあり、ホークウインドとはバンドがデビューしてすぐの70年代初頭から親交が始まり、詩の提供、時にはステージに立って朗読するなどの関係でした。80年台半ばのニック・ターナーの脱退やその後のデイヴ・ブロックのメンバーに対する対応を踏まえてブロックとは関わり合いは持っていません。ターナーやアラン・デイヴィらとの親交は続いており、USのスピリッツ・バーニングとのコラボアルバムの制作、自身のバンド、ディープ・フィックスのアルバムのリリースを行っています。
今回は2015年と2019年の2つのインタビュー記事を和訳転載します。とても興味深い内容です。
合わせてマイケル・ムアコックのディスコグラフィも公開しました。

Michael Moorcock マイケル・ムアコック

It's Psychedelic Baby Magazine記事(2015年4月)

あなたがホークウインドを初めて知ったのは1970年、アンダーグラウンド雑誌「Frendz」を通してですよね。彼らのデビューアルバムを聴いたときの感想はいかがでしたか?

MM:ボブ・カルバートがジョン・トルクスと一緒に僕に会いに来きました。彼はその時点ではホークウインドに加わっていませんでした。彼はこの新しいバンドに熱中していて、みんなでフルハムだったかな、彼らのギグを見に行きました。私は彼らを気に入りました。ディクミクはノブを回したり、ジャックを差し込んだり、デルは気が狂った小人のようにさまよっていました。ドライアイスの煙幕。デイヴとニックはストロボの明滅の中にいました。音の波が次々と押し寄せてきました。当時私が言っていたように、それはまるでクルーが完全に狂ってしまったスターシップに乗っているような感じでした。私は彼らの気取りのなさに感銘を受けました。その夜、彼らに会ってみたところ、意気投合しすぐに友達になりました。ジョン・トルクスは、新しくできた高速道路の高架下を地元の人々のための場にするプロジェクトを率いていました。妻のジルと親友のジム・コーソンが壁画を描き、私たちは段状のベンチ席を設置して、演劇やロック演奏のためのステージを作りました。ホークウインド、クイーバー、ブリンズリー・シュウォーツ、ピンク・フェアリーズなど、地元のバンドばかり。その1日か2日前に、私の家から5分の場所にあるポートベロー・グリーンと呼ばれる場所でライブが行われることになっていました。当時、デイヴとニックは頻繁に来ていて、ボブも一緒にいましたが、彼はハイパー状態だったので、彼らのフロントをやる人がいませんでした。私は彼らのために「Sonic Attack」などの曲を書いたばかりでした。イってしまってるボブに、彼が演奏に復帰できるようになったら、私は下がると言って安心させました。何年かの間、そんなことを繰り返しました。私は、ファーストアルバムがバンドの最高の状態を示しているとは思わなかったので、セカンドに参加しました。バーニー・バブルズはもう一人の友人で、制作中のビジュアルを見せてくれました。

あなたのように尊敬されている作家と話をするとき、最も興味深いことのひとつは、あなたが影響を受けたものやインスピレーションについてです。あるインタビューでは、お父様が残した数冊の本から多くのインスピレーションを受けたとおっしゃっていましたね。その後、New Worldsの仕事をしていた50年代から60年代にかけて、文学の分野では他にどのようなものに影響を受けましたか?

MM:ああ、家にあったのは頭でっかちな時代の本でした。カミュと実存主義者たち。ピーク、ゴシック、ベスター。SFはほとんどなかったです。私は17歳でプロのジャーナリストになり、鼻歌を歌うように遊んでいました。エッジの効いた文化が、私や私の友人、同世代の多くの人々を作り上げ、そして私たちが作り上げたものなのです。私は時代精神の一部だったのです。

60年代後半には、さまざまなレベルで革命が起きていました。その中でも特に影響を受けたのが音楽ビジネスで、アンダーグラウンドのロックバンドが突然爆発的に増え、その中にはユニークな形の音を出すバンドもありました。あなたのティーンエイジャー時代に、音楽は大きな役割を果たしましたか?

MM:もちろんです。私は当時の偉大なブルースマンたちと出会い、15歳の頃からバンド活動をしていました。トミー・スティールのようなロッカーや、アレックス・コーナーのような初期のR&Bやブルーズの人たちとは知り合いでした。ロング・ジョン・ボルドリーやズート・マネーなども知っていました。私はサウス・ロンドン出身で、ノッティング・ヒルに引っ越してきました。ミュージシャンを知っていたし、クラシックやモダニズム音楽を含めて音楽が好きでした。

Frendz誌でホークウインドの記事を読む前に、例えばザ・デヴィアンツなどの他のバンドのことを知っていましたか?もし知っていたら、その中で興味を持ったバンドはありましたか?

MM:ミック(・ファーレン)のことはよく知っていたし、多くのアンダーグラウンド・ミュージシャンのことも知っていた。いろいろな人とスクラッチバンドで共演しました。変わったデモも作りました。

ロバート・カルバートは、ストリート・シアター・グループ、ストリート・ダダ・ニヒリズムスを結成し、前述の雑誌Frendzにも参加していました。カルバートの詩はNew Worldsやその他の雑誌にも掲載されています。彼の作風についてはどう思われますか?

マイケル・ムアコック「暗黒の廻廊」
「暗黒の廻廊」日本初版1983年 早川書房刊

MM:彼には素晴らしい天賦の才能がありました。非常に優れた作家に成長しただろうと思います。しかし、彼は少し規律を欠いていました。

カルバートはホークウインドのデイヴ・ブロックと親交を深め、70年代初頭から79年までホークウインドの作詞家兼フロントマンとなりました。あなたのバンドとの初共演は、ポートベロ・ロードのグリーンでSonic Attackなどの曲で参加されたとのことでしたね。カルバートは、ホークウインドのアルバムにも収録しているあなたの著書「暗黒の廻廊(The Black Corridor)」にとても感銘を受けたそうですね。これについて何か言えることはありますか?

MM:多くはありません。あれは現実なのか、主人公の心の中で起こっているのか分からない心理的な物語でした。それがボブには魅力的に映ったようなので、彼に使っていいよと言いました。

1975年「絶体絶命」が発売されました。この作品の制作には、あなたが大きく関わっているようですが、この作品のコンセプトを教えてください。この作品の起源は、「エターナル・チャンピオン」シリーズですよね。

MM:「エターナル・チャンピオン』のストーリーの延長線上にあります。基本的には、神話全体の一部です。

マイケル・ムアコック ハマースミスオデオン
ホークスのハマースミス・オデオン・
ギグで朗読するムアコック

「ソニック・アタック」もコラボレーションされたアルバムですが、ホークウインドとのコラボレーションで最も濃密なものは、間違いなく「黒剣年代記」のリリースでしょう。それについて教えてください。

MM:実はこの件は、ニッキー(ターナー)と多くのことを話し合い、デイヴ(ブロック)とはほとんど何も話していなかったので、少し悩みました。その頃、ニッキーは再び解雇されてしまったので、せっかくの仕事が無駄になってしまいました。それ以来、私はあまり関わらないようにしようと静かに決めました。

MM:それは事実上、私にとってホークウインドでの最後のライブでした。私はデイヴの立場を理解していましたが、彼がそれをうまく処理したとは思えませんでした。するとデイヴは、私に無断でダグ・スミスのレーベルでアルバムをリリースしてしまいました。当時、私はダグラスと係争中でしたので、デイヴは私に何が起こっているのか、もっと話してくれるべきだと思いました。だから、私は自分の出演したトラックを引き上げました。ダグとの紛争が一部解決した後、私はその問題を棚卸しました。ハマースミス・オデオンでのライブは楽しかったのですが、それ以来、ホークウインドとはあまり縁がありませんでした。黒剣ツアーで終わってしまったのは本当に残念です。
※DAZE注:ここで触れている『ライヴ・クロニクルズ』はダグ・スミスのレーベルGWRからリリースされましたが、ムアコックは自身が参加しているトラックの収録を認めず全て除かれていました。その後GRIFFINからリリースされたアルバムではそれらのトラックが追加収録されました。

カルバートとはどのくらい仲が良かったのですか?彼の2枚のソロアルバム『CAPTAIN LOCKHEED AND THE STARFIGHTERS』と『LUCKY LEIF AND THE LONGSHIPS』についてコメントしてください。

MM:私たちは良い友人でした。彼とは「LUCKY LEIF」でもかなり一緒に仕事をしましたが、これもとても楽しかったです。あのアルバムは大好きです。今でも聴いています。カルバートとイーノは相性がよかった。このアルバムで私がギターを少し弾いていると、イーノが「誰かバンジョーを弾かないか」と尋ねてきました。私は家に帰って自分のバンジョーを持ってきた。もう何年もケースから出したことがなかった。アイランド・スタジオは、私のアパートから5分しか離れていませんでした。私はイーノに、演奏する前に新しい弦を買いに行かなければならないと言ったが、彼は古い弦のままでいいと言った。その結果が、あなたが聞いているものです。『HYPE』では、ロバートとかなり親密に仕事をして、構成を手伝ったりしました。私は確かリッケンバッカーの12弦を弾いていたと思います。

マイケル・ムアコック&ディープ・フィックス『ニュー・ワールズ・フェア」
MICHAEL MOORCOCK & THE DEEP FIX /
NEW WORLDS FAIR (1975)

マイケル・ムアコック&ザ・ディープ・フィックスが『ニュー・ワールズ・フェア』をリリースするまでの経緯を教えてください。

MM:私はシングル・デモ(Dodgem Dude)を作って、ダグラスはそれをUAに持ち込んだ。これは私にとって2番目のデモでした(最初のデモはEMIのもので、1956年のひどいものでした)。私は1964年にラング・ジョーンズや他のミュージシャンの友人たちと『SUDDENLY - IT'S THE BELLYFLOPS』というジョーク・レコードを作りました。A&Rの人とランチをした時に言われました「いつになったらアルバムを作ってくれるんですか?」私は3枚のアルバムの契約をしました。

そこで私は、この幸運を何人かのミュージシャンの友人に分け与えることにしました。中心となったのは、ピート・パブリ、グラハム・カルノック、スティーヴ・ギルモア、テリー・オリス、そして私で。スノーウィー・ホワイト、クマ(ハラダ)、ヒュー・ロイド・ラングトンが何曲か参加しています。サイモン・キングは1曲か2曲に参加していたと思うし、もちろん、サイモン・ハウスはフィドルを弾きました。制作には問題があった。私たちは真剣にプロデューサーを必要としていましたが、ダグラスにそれをさせたくありませんでした。私は他の人を雇うべきだったと思っています。満足のいくトラックはほとんどありません。

ホークウィンドはサイケデリックで、ドラッグを多用することでも知られていました。あなたはドラッグを体験したことがあるかどうか、またその場合、執筆活動に何か影響があったかどうかをお聞きしてもよろしいでしょうか?

MM:イエスでもありノーでもあります。私は執筆活動に対して非常に純粋で、刺激物は濃いコーヒーと大量の砂糖だけでした。メスカリンほどのドラッグは使いませんでしたし、その上で文章を書こうとしたり、私の場合はビジョンのために使おうとするのは馬鹿げていると思います。私はいつもビジョンを見ていて、その多くは非常に精巧なものです。中世であれば、私は魔女として焼かれていたでしょう。しかし、子供の頃から複雑なビジョンを見ていた私は、それに慣れてしまい、当たり前のように感じていたのです。私にとってはごく普通のことなので、そのようなことに対処できるようになったのです。

マイケル・ムアコックとニック・ターナー
ムアコックとカエルのマスクを被ったターナー

ホークウインドで経験した最もクレイジーな瞬間は何ですか?

MM:思い出せるかな、、 たぶん、オックスフォードのアポロでニッキーが空中に舞い上がるのに失敗したことでしょう。スパイナル・タップのような瞬間がいくつもありました。濡れた床に足を滑らせ、カエルの着ぐるみを着て飛んでいったニッキーは、私の横を通り過ぎて客席に飛び込みました。彼のサックスは大丈夫だろうかと、通り過ぎていく彼を見ていたことを覚えています。

現在取り組んでいることは何ですか?

MM:半自伝的小説『THE WOODS OF SARCADY』の第2巻、パリのDenoel社で『WW3 SEQUENCE』の新作をいくつか、フランスのGlenat社でロビン・リヒトとのファンタジー・グラフィック・ノベルの新作を執筆中です。現在、パリではマーティン・ストーン(リード・ギター)、ドゥニ・ボドリヤール(ドラム)、ブラッド・スコット(ベース)、パトリック・クートン(オートハープ)、ショーン・オアー(フィドル)と一緒に仕事をしていて、『LIVE FROM THE TERMINAL CAFÉ』の基本トラックをほぼ完成させました。ディープ・フィックス・プロジェクトです。最近、指がうまく動かないので、ハーモニカを使っていくつかの曲を作曲しました。ケイジャン(米に移住したフランス系移民のダンス音楽)の影響を強く受けています。

現在のアンダーグラウンドミュージックシーンを追っていますか?また、現在は何を聴いていますか?

MM:私は音楽にはとてもこだわりがあります。勧められたものは何でも聴きますし、オースティンのバンドを見に行くこともありますが、ライブにはあまり行けませんね。来月はディランのコンサートに行く予定です。友人のマック・マクレガン(フェイセズに参加していた)のライブにもよく行きましたが、残念ながら彼は去年亡くなりました。出演者が一人のハウスコンサートにも行くことがあります。

今、本は何を読んでいますか?

MM:ブライアン・キャトリングの「THE VORRH」をちょうど読み終えたところですが、これはお勧めです。その他ジョン・キングの「The Prison House」。アラン・ワーナーの「They Lips Talk of Mischief」です。

お手間を取らせてしまったムアコック氏に感謝したいと思います。It's Psychedelic Baby Magazineの読者にメッセージを送りたいですか?

MM:生き生きとしていて、注意を怠らず、自分自身を楽しみ、常に意識的な生活を送るようにしてください。常に新しい音楽に耳を傾けるようにしましょう。鼻をほじらないこと?どうでしょう。Keep smiling! ありがとう。

PERUN.HR記事(2019年12月)


ホークウインドのメンバーとはどのようにして出会ったのですか?

MM:「Frendz」のジョン・トルクスがボブ・カルバートを連れてきてくれました(私は「Frendz」から5分ほどのラドブローク・グローブに住んでいて、「New Worlds」のオフィスは3棟ほどしか離れていませんでした)。彼らは、私にこの新しいバンドを見せたいと提案しました。一緒に行ってみると、確かに彼らを気に入りました。彼らはアナーキーであると同時にコントロールされているように見えました。

彼らと同じような世界観に共感したのですか?

MM:はい、そうです。

あなたとミック・ファーレンは、自分たちがアナーキストであると公言していますね。どのような点でしょうか?

MM:哲学的、道徳的な態度。フェミニズムや社会主義などを含む、平等を見て行動するための道徳的な立場です。

あなたは、国境も国家も宗教カルトもない、ただの人類が存在する日が来ると思いますか?

MM:カルトの名の下に、誰かや子供を殺したり、戦争をしたりするのは病気ですからね。あなたは、人々がそのようなゲームをやめてしまう可能性はあると思いますか?絶対にあります。 私は、10歳のときに初めてその考えを読んだときから、公正で民主的な世界政府に憧れていました。そのために努力しました(人種差別撤廃、反ファシスト、民主的社会主義など)。 私はそのような世界を望み、そのために努力し続けています。

ホークウィンドの元メンバーはどうなっているのでしょうか?揉め事があるのはわかりますが、どうしてみんな賢くなって、一緒になって、お互いに尊敬し合って、ホークウインドとして新しいアルバムを作れないのでしょうか?誰もこの件で利益を得ていません。あなたは少しだけニックの側に立っていると言っていましたが、それは本当ですか?

MM:今までよりもずっとね。誰もが他の人と仲良くしています。デイヴだけが唯一の煽り屋です。分裂と支配が彼のモットーです。デイヴは常に人を操り、トリッキーであり、最近の出来事では50年来の忠実な友人を攻撃したり(あるいは物理的な攻撃を引き起こしたり)しています。私がこのバンドに参加したのは、まさにそのバンドの考えが私自身を反映していたからです。ニックはバンドの精神でした。デイヴは独裁者です。ニックが私と一緒にアイデアを練っていたのに、デイヴがニックを操って解雇した2回目のとき、私は静かに去ることにしました。デイヴのやり方にはうんざりしました。何も言わずに、私は黒剣のライブを最後にしようと決めました。演奏中にそのことは分かっていましたが、誰にも言いませんでした。最近、デイヴが一転して、私が友人だと思っているメンバーやファンを攻撃するようになったので、私は率直に疑問を表明することにしました。お金が原因であることは間違いありません。デイヴはおそらく退職後の社会保障や税金の問題を抱えており、旧友やバンドメンバーに対してネズミのような態度をとっています。バンドメンバーや長年の支援者に対する彼の行動は気持ち悪いです。他のみんなとはとても良い友達のままです。

私はあなたのバンドTHE DEEP FIXが好きです。1975年に『ニュー・ワールズ・フェア』というレコードを出していますね。私はこの作品が好きですが、あなたはどこかでこの作品に満足していないと言っていました。なぜですか?

MM:あれ以前にもいろいろなデモをやったり、その後もたくさんの作品があります。1964年には風刺的な『SUDDENLY, IT'S THE BELLYFLOPS』を録音したり、全部で4枚のアルバムがあります。75年の『ニュー・ワールズ・フェアー』、『ROLLER COASTER HOLIDAY』(『ニュー・ワールズ・フェアー』のデモやオリジナル)、そして私の『ENTROPY TANGO』/『GLORIANA』をベースにパヴリと制作したレコード、FLICKNIFEレコードからリリースした断片などです。しかし、ロック業界のプロデューサーたちは、私とピート・パヴリの作品を理解するのが難しいと感じていました。無調で、ベースやドラムがなく、「スピーチ・シンギング」のようなものだからです。私たちはしばらくの間、他の人のレコードで仕事をする以外は諦めていました。その後、私たちは現代のクラシック音楽に興味を持つようになりました。ピートは、ウェールズで本屋を経営していました。彼は経済学者の本を専門に扱っていました。彼はまた、陶芸の専門家でもあり、立派な製本職人でもあります 彼はプログレッシブな現代音楽を書く傾向があります。
私は『ニュー・ワールズ・フェアー』に全く満足していませんでしたし、もっとうまくやれるはずだと思っていました。

『ニュー・ワールズ・フェアー』には、後にモーターヘッドの『エース・オブ・スペーズ』をプロデュースしたヴィック・マイレが参加しています。彼からは何かアイデアがあったのですか?

MM:特にありません。でも、彼との仕事は楽しかったし、彼は良いエンジニアでした。

Michael Moorcock & The Deep Fix - Dodgem Dude
MICHAEL MOORCOCK & THE DEEP FIX
DODGEM DUDE/STARCRUISER (1980)

このLPには、デイヴ・ブロック、サイモン・ハウス、サイモン・キング、アラン・パウエルも参加しています。彼らはただ演奏しただけなのか、それとも曲のアイデアも出したのですか?当時、彼らはこのアルバムについてどのように語っていましたか?

MM:サイモン・ハウスが譜面を書いた以外、彼らはあまり貢献していなかったです。レミーとテリー・オリスは少し関わっていた。デイヴ(ブロック)が関わったことは全く覚えていません。私はアルバムのクレジットを書いていないのです。スノーウィー・ホワイトとクマ(ハラダ)は制作にかなり関わっていました。

シングル「Dodgem Dude / Starcruiser」は、実はアルバムの前にレコーディングされ、後にリリースされたものなのですね。それがアルバムを作るきっかけになったのですね。

MM:UAはそのシングルを気に入ってくれて、それをきっかけに3枚組の契約を申し出てくれました。それは予想していませんでした。承諾したのは、THE DEEP FIXのメンバーをレコーディングして、彼らを露出させる機会を得られるからです。私は作家として、ストーリー性を重視しているので、この作品はソングサイクルとして考えました。

他にもシングル「Brothel in Rosenstrasse」がありましたね。これはどのようにしてできたのですか?

Michael Moorcock & The Deep Fix - Brothel In Rosenstrasse
MICHAEL MOORCOCK & THE DEEP FIX
BROTHEL IN ROSENSTRASSE (1982)

MM:私がUAという会社に見切りをつけた後、FLICKNIFEがStarcruiserのシングルを作ってくれました。その後、予定していたアルバムからBROTHELをやってくれました。すぐに私たちはフラストレーションが溜まりました。他にもやりたいプロジェクトがありましたので。

同じ年の1975年には、ロバート・カルバートの2枚目のソロアルバム『LUCKY LIEF AND LONGSHIPS』が発売されました。最初の素晴らしい作品には参加していませんでしたが、この作品には参加していましたね。ブライアン・イーノやカルバート、その他のメンバーとの仕事はどうでしたか?このアルバムに満足していますか?

MM:私はギター、バンジョー、バッキング・ボーカルを担当しましたが、イーノとの仕事はとても楽しかったです。知性とコミュニケーションで、迅速に仕事ができました。それが私には合っていました。ボブはとても規律正しいレコーディングミュージシャンでした。3枚目のアルバム『HYPE』では、リッケンバッカー12弦も弾きました。リンダと私はこのアルバムでバッキング・ヴォーカルを担当しました。

アメリカを最初に発見したのはコロンブスではないと思いますか?
※DAZE注:カルバートの2ndアルバムのコンセプトに由来

Robert Calvert - Lucky Lief And Longships
ROBERT CALVERT
LUCKY LIEF AND LONGSHIPS (1975)

MM:私の初期のコミックソングでは、クリストフ・コルムボビッチがアメリカを発見したと主張していましたよ。

ホークウィンドは、70年代と同様に、アルバムのためにあなたの本をベースに「黒剣年代記」というアルバムに使われました。彼らの最高傑作の一つだと思いませんか?そして、「ライブ・クロニクルズ」は良い作品です。彼らと一緒にスタジオやツアーに参加したのですか?

MM:いくつかのライブに参加しましたが、スタジオ収録には立ち合いませんでした。デイヴが、誰がレコードを出すかについて嘘をついたので、私は自分の出演した曲をすべて削除しました。
※DAZE注:ダグ・スミスと係争中だったので、ムアコックはまさかそのスミスのレーベルからリリースされるとは思っていなかったそうです。
デイヴの策略にはまって、私が行動を起こしたのはこのときが初めてでした。その後、レーベルが変わったときには、ほとんどの曲を元に戻してあげました。私はこの作品を評価するのに適した人間ではありませんが、私は多くの作品、特にヒュー(・ロイド・ラントン)の作品を気に入っていました。

60年代、70年代のシーンに参加していたあなたに偉大なミュージシャンたちを世界の人々に紹介していただきたいです。先月、偉大なミュージシャン、ラリー・ウォリスが亡くなりましたので、お聞きします。彼や他の何人かのミュージシャンをどのように思いますか?ミック・ファーレン、レミー、デイヴ・ブロック、トゥインク、ロバート・カルバート、ニック・ターナー、ラッセル・ハンター、ポール・ルドルフ、ダンカン・サンダーソン。

MM:みんな同じような考えを持った人たちで、そのほとんどが今でも良い友人です。ラリーは双極性障害の問題児で、カルバートのように最高の状態では優しくて集中力がありましたが、「アップ」になるとまるで悪夢でした。トゥインクはここ数十年ほとんどモロッコにいますし、ブラッキー(ポール)はカナダに戻っています。オースティンでやったライブでのニッキーはとても元気でした。ミック(・ファーレン)とは、彼が編集者で、私がジェリー・コーネリアスのストリップを寄稿していたInternational Timesの時代からとても仲が良かったです。彼は、わいせつ罪などの裁判を自ら行っていて、その雄弁さには本当に感心しました。

Michael Moorcock and Tony Crerar
黒剣ツアー、ハマースミスでのムアコックと
エルリックに扮したトニー・クレラー(1985)

その人たちと何度もパーティーに参加していましたね。何かエピソードはありますか?というのも、私たちファンは、ステージの外、つまり「カメラ」の向こう側のことを知りたいので。

MM:正直なところ私はあまり社交的ではありませんでした。以前、サイモン・キングのパーティーにディクミクと一緒に参加したとき、私たちは最後まで起きていました。みんなが寝静まった頃、ディクミクはサメのようにニヤニヤしながら「誰か徹夜してディクミクと話したい人はいませんか」と聞いて回って、みんなを怖がらせたことがありました。僕は彼を「A DEAD SINGER」という、ジミ・ヘンドリックスを運転していると思い込んでいる道楽者の物語の主人公にした。レミーとはプリンセス・ルイーズでよく会っていた。ディクミクの運転するナッシュに乗って高速走行した。カルバートをヨークシャーの僕の家に連れて行って、荒野を歩かせてダウナーやクソを吐き出させたり、作曲を手伝おうとしたり、そんなことをしていました。また、私の大きなナッシュでペナイン・ウェイ(ウォーキング・トレイル)をドライブしたりして、楽しい時間を過ごしました。
DAZE注:ナッシュは40年代のアメ車
しかし、仕事をしていないときは、ほとんどの場合、子供たちと一緒に過ごしていました。

あなたのその頃について最後の質問です。数ヶ月前にソーニャ・クリスティーナ(カーヴド・エア)のインタビューを読みました。彼女が言うには、あの頃みんなヒッピーだったが、ラブ&ピースではなかった。アルバムに限らず、彼らはもっと尖っていた。あなたはこれに同意しますか?また、彼女と一緒に演奏したことはありますか?
DAZE注:クリスティーナはデヴィアンツやホークスの周辺に関わっていて本人もヒッピーだっと語ってます。

MM:正にその通りです!私たちは都市の活動家でした。デイヴは田舎に住んでいましたが、私たちのほとんどはロンドンに住んでいました。だからこそ、私たちは仲良くなれたのだと思います。私はラブ&ピースだけでは不安でした。ほとんどの人が、どこかで警官とトラブルを起こしていました。何人もの人と演奏しましたが、あまり覚えていません。ポートベロー・グリーンのライブでコゾフとアーサー・ブラウンと一緒に演奏したのを覚えていますが、ポール(コゾフ)は途中でスタックの後ろで寝てしまい、アーサーは座ったまま起き上がれず、私はステージの穴に落ちるまで演奏し続けました。何人かのフランス人が、今まで観た中で最高のギグだったと言ってました。

パンクが70年代のそれまでのものを終わらせましたが、トゥインクがザ・リングスと共演したり、アンディ・コルクホーンやルーカス・フォックスがWARSAW PAKTで、ミック(ファーレン)と何曲か作っていたのは知っていますよね。あなたはこのような音楽に関わったことはないのですか?好みではなかったのでしょうか?

MM:パンクは好きだったし、ピストルズのために『The Great Rock and Roll Swindle』を書きましたが、自分のバンド、ホークウィンド、ブルー・オイスター・カルトのために書いた曲以外は関わっていませんでした。

忘れていましたが、T.レックスの元メンバーであるスティーヴ・ペレグリン・トゥックは、ラリー・ウォリスらとSHAGRATというバンドを組んでいました。あなたのバンドと彼のバンドは1978年にロンドンのラウンドハウスで演奏しましたが、その時にはブライアン・ジェイムス、アンディ・コルクホーンのTANZ DER YOUTHも参加していましたよね?彼とそのショーについて何か言ってください。

MM:私はトゥーキー(S.P.トゥック)が大好きで、みんな仲良くやっていました。マーク・ボランは大嫌いでしたが、あろうことか彼は私にすごく会いたがっていました。彼は、私が自転車に乗っている間、白いロールスロイスでラドブローク・グローブを追いかけてきて、私に声をかけてきました。私は彼を避けるために横道に入ったり、歩道に乗り上げたりしていました。私は、彼がトゥーキーを捨てたことが気に入らなかったのです。あれは奇妙なギグでした。というのも、私たちはダムドに続いて演奏したのですが、彼らはすべての音をとても高音にしていて、私たちには設定を変えるチャンスがなかったのです。私の推測では、私たちはシマリスのような音だったと思います。

最初のレコードから30年後、あなたは再び音楽の世界に戻ってきました。その後、3枚のアルバムをリリースしていますが、最後のアルバムは数日前に発売された『LIVE AT THE TERMINAL CAFÉ』ですね。アルバムはどんな内容ですか?

Michael Moorcock & The Deep Fix / Live At The Terminal Café
MICHAEL MOORCOCK & THE DEEP FIX
LIVE AT THE TERMINAL CAFÉ(2015)

MM:私は自分の文章を補完し補強するために、本に付随するコンセプトで仕事をする傾向があります。『LIVE AT THE TERMINAL CAFÉ』は、ミシシッピ州ビロクシにあるターミナル・カフェでバンドが演奏する音楽をイメージしています。このカフェは、巨大なカラーストライクの隣にあり、特にギャンブラーが見つけることができる神秘的なエネルギーがあります。これらの元になった本はBLOOD三部作として知られている「BLOOD」、「FABULOUS HARBOURS」、「THE WAR AMONGST THE ANGELS」。また『MICHAEL MOORCOCK'S MULTIVERSE』という12冊のコミックも関連しています。ケイジャン、カントリー、テキサノのリズムをベースにしたダンスチューンが中心です。今まで作ったレコードの中で、最も「踊れる」レコードです。

私が初めてマーティン・ストーンを聴いたのは、ピンク・フェアリーズのシングル「Between The Lines」に彼が参加したときでした。今回のアルバム制作にあたり、どのようにして彼と意気投合したのでしょうか?

MM:マーティンと私は、サウス・ロンドンの同じ地域の出身です。彼がMIGHTY BABY(元はTHE ACTIONというバンド)に在籍していたときに出会ったのですが、このバンドは素晴らしいミュージシャンの集まりでした。 私たちは同じような種類の本をたくさん読んでいました。 彼は私より少し年下で、私の名前が載っている本を探しては読んでました。ストーンズをはじめ、多くのバンドが彼の参加を希望していました。彼の最後のツアーバンドであるチリ・ウィリーが解散した後、彼はフルタイムの書店員になりました。彼は、本の世界では誰もが知っているような珍しい本を見つける能力を持っていました。また、私たちは音楽をはじめとする他の情熱を共有しており、彼がパリに、私がオースティンに引っ越すまで良い友人でした。私がパリに住むことになってからは、また仲良くなりました。何年も前から一緒にレコードを作ろうと話していて、パリでやろうと決めていました。そこで、デニス・ブドリャートとブラッド・スコット(ドラマー&ベーシスト)に連絡を取り、パリでリハーサルを行い、モンマルトルにある小さなスタジオでベーシックトラックを録音しました。私の友人であり隣人でもある、テキサスの偉大なフィドル奏者の一人、ショーン・オアーがフィドルを弾いてくれることになり、サンフランシスコのドン・ファルコーネ(スピリッツ・バーニング)にプロデュースを依頼しました。彼は、私がハーモニカを吹いたり、アカペラでSt James's Infirmaryを歌ったりするのを録音して、少しずつ追加してくれました。これまでに制作したアルバムの中で一番いい出来だと思います。

Michael Moorcock - Don Falcone
ムアコックとドン・ファルコーネ(スピリッツ・バーニング)

このアルバムには、70年代のスタイル、ホークウィンドのスタイル、そして新しいサウンドが含まれていて、とても新鮮に聞こえました。例えば、1曲目の "The Effects Of Entropy "や "Sam Oakenhurst's Story "では、これらの新しさが際立っています。それらにはどのようなストーリーがあったのでしょうか?

MM:先ほどのBLOOD三部作がベースです。残念ながらホークウィンドらしくはないですよ。このレコードは、マーティンのギターがドライブしています。

アルバムを聴いていない人のために、今回の歌詞のテーマを教えてください。

MM:話した通り! 全てがご機嫌なダンスチューンです!

アルバムで大活躍したドラマーのデニス・ボードリラートとベーシストのブラッド・スコットについて、一言お願いします。キャサリン・フォアマンやジョナサン・シーゲルもメンバーだったんですね。

MM:デニスは、ヨーロッパで最も優れたドラマーの一人です。ブラッドはフランスのバンドにいくつか参加しています。どちらもパリのマーティンと定期的に演奏していました。彼はパタフィジシャンのイベントでも演奏していて(マーティンも私もパタフィジシャンでした)、そこで初めて会ったのです。パリで働くミュージシャンたち。ショーンも古い友人で、オースティンで自分のバンドを率いています。ドンが他の2人を紹介してくれました。彼ももちろんミュージシャンで、ピアノを弾いてくれました。

Michael Moorcock and the deep fix - Terminal Caffe
LIVE AT THE TERMINAL CAFÉに参加しているアーティスト
左からブラッド・スコット、マーティン・ストーン
ムアコック、デニス・ボードリラート

スリーブは、あなたのコミック「Michael Moorcock's Multiverse」を描いたウォルター・シモンソンが担当しましたね。

MM:そうです。彼も古い友人です。ウォルターとはDC COMICSのプロジェクトでよく一緒に仕事をしています。マーベルでは「THOR」のコンセプトを担当しました。数年前には『ELRIC: THE MAKING OF A SORCERER』というエルリックのプロジェクトでも一緒に仕事をしました。スリーブの絵はギュスターヴ・モローです。内側のスリーブはウォルターが担当しました。

アルバムの制作は簡単でしたか?また、1975年と今では何が違うのでしょうか?

MM:かつてレコード会社は、すべての費用を多額の前払い金から支払っていました。前払い金は「経費」として使われていたので、目にすることはありませんでした。今は、すべて自分で支払っています。これは良いことで、使いすぎて誰がどこにお金を使ったのかわからなくなることを防げるからです。また、自分でタイムテーブルを組み、エンジニアやプロデューサーを完全にコントロールすることができ、テープも完全に自分のものになります。

このアルバムを作っている最中に、マーティン・ストーンが亡くなりました。このアルバムは彼に捧げられているのですね。このアルバムでは、彼なしでどれくらいの作業をしたのですか?

MM:ほとんどがプロダクションです。ギターはすべて彼のものです。

ヨーロッパでのツアーの予定はありますか?

MM:マーティンなしではできません。

しばらくしてから、新しいアルバムを作る予定ですか、それとも執筆活動に戻る予定ですか?

MM:もし、マーティンやピート・パヴリのような優れたパートナーを見つけることができたら、今日からでもレコーディングを始めようと思っています。私は重度の神経障害を患っているので、今、演奏できる楽器はハーモニカだけです。『TERMINAL CAFÉ』は全てハーモニカで作曲しました。

あるインタビューでレミーがあなたの話をしていたときに、「とても不幸な名前を持つ素晴らしい人」というようなことを面白おかしく言っていたのを思い出します。

Lemmy at Hawkwind gig 24-08-1985
レミーがゲスト参加したアンチヘロインギグ
左からラントン、レミー、デイヴィ(1985)

MM:レミーは私が知る限り最もよく本を読むミュージシャンの一人でしたが、表の顔は低俗なペルソナを装っていました。彼が初めてホークウインドのオーディションを受けたときから、私たちは意気投合しました。
彼は私のことを、演奏することに緊張している上品な文学者だと評するのが好きでしたが、私はステージでは全く緊張せず、逆に彼はステージに出る前はとても緊張していました。
ある夜のクリスマス・ギグ(ハマースミス・オデオンでのリユニオン)では、彼がひどい鼻血を出してしまい、リンダが助けたことを覚えています。彼は外面はタフですが、内面は非常に優しい人でした。常に抜群のグルーピーをゲットしてましたので、リンダは彼に会う前「あんな男尊女卑のような奴と話すことないわ」と言っていましたが、レミーはとてもチャーミングで愉快な男だったので、すぐに気に入ってしまいました。
DAZE注:クリスマス・ギグというのは勘違いで84年3月13-14日のギグを指していると思われます。

もし彼が純粋なエネルギーとしてどこかで生きているとしたら、私たちは彼に何を言うべきだと思いますか?

MM:失せろ、この老いぼれが。

ムアコックさん、ありがとうございました。これからも本と音楽を期待してます。

MM:ありがとう、どういたしまして。


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2022/04/27 update


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